■高田馬場YOU歩道がマスコット(堀部安兵衛)に使用している人形 堀部安兵衛の由来■

この地は名前の如く昔、馬場があり 赤穂義士堀部安兵衛武庸の武勇助太刀によって 往昔より天下に知られた所である

安兵衛の本姓は中山氏。越後新発田に生る。実父彌次右衛門は溝口信濃守の家来で、 一族は家老上士の身分家柄であったが、故あって浪人した。父没後、19歳の時江戸に出て、 小石川牛天神の剣客堀内源左衛門に剣を学び、たちまち高弟随一に挙げられた。
元天龍寺竹町(後の納戸町又は箪笥町辺)に寓居し、師の代稽古を勤め各藩邸に出張教授をしていた。
伊豫西條藩松平家臣菅野六郎左衛門と親交し、叔父甥の義盟を結んだ。
偶々菅野と同僚村上庄左衛門と不和決闘のことを生じ、安兵衛は義叔父に助勢のため、 菅野若党、ぞうり取りと同道して決闘の場に臨んだ。

元禄七年二月十一日巳の上刻(午前十一時半頃)村上庄左衛門一人馬場末に待ちかまえ、 二兄弟は木陰に身をひそめ、左右より襲い菅野を討たんと謀っていた。
安兵衛は菅野を護衛して進み、躍り出た弟三郎右衛門と斬り結び、これを仆し、 次いで馳せつけた敵中津川祐見をも斬る。菅野と村上は互いに傷つき闘っていた。
菅野老人危うしと見た安兵衛は血刀をふるって、庄左衛門を切り伏せた。
家来と共に菅野を介抱して帰る途中、某屋敷の番小屋に入って休むうち、菅野は深創のため絶命した。

安兵衛の武勇の誉をきいた播州赤穂藩江戸留守居役堀部弥兵衛が安兵衛を招待対面して、 その人物に惚れこみ、人を介して再三交渉の後、娘ほり(堀部家家系譜)の婿養子とした。
かくて安兵衛は浅野家馬廻役二百石勤仕となる。

その後数年を経て、浅野内匠頭、吉良上野介殿中刃傷事件が起り、内匠頭切腹、御家断絶。
『君父の仇は倶に天を戴かず』の武士道の忠義心に凝る堀部父子は、 大石内蔵助を盟主とする赤穂四十七義士とともに吉良邸に討入り、名高き元禄快挙を遂げた。
元禄十六年二月四日、幕命により身柄お預けの松平邸において、安兵衛は切腹する。行年三十四歳。
法名を刃雲輝剣信士と謚られ、その墓は高輪泉岳寺に四十七義士とともに在り、世々香煙絶えず。
亦別に表忠墓碑は堀部家菩提寺の万年山青松寺(港区芝愛宕町)に在る。

明治四十三年、元禄以来この地の旧家行田久蔵氏が自費をもって安兵衛の義烈武功を記念する碑を建立す。
碑文は信夫恕軒翁の粲撰になるが、文中実録史料と相違のところがある。
依って有志相謀って、ここにその由来の一札を建て、誤伝巷説を正し、広く世人に伝えるものである。

昭和四十三年十二月十四日
中 央 義 士 会   他 略

と印されている
水稲荷神社の堀部安兵衛の石碑
水稲荷神社の堀部安兵衛の石碑