流鏑馬とは騎射の一種で、矢つぎばやに射る練習として、走る馬の上から矢で的を射る射技である。平安末から鎌倉時代に武士の間で盛んに行われた。
流鏑馬の奉納される穴八幡宮(西早稲田二ノ一ノ十一)は、古くは小社があり八幡山と呼ばれていたが、寛永十三年(一六三六)幕府弓持組頭松平新五左衛門尉直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀した。同十八年(一六四一)宮守の草庵をつくるため山すそを切り開いたところ神穴が出現し、以後穴八幡と称するに至った。
このころ、神木の松から光を放つなど、三代将軍家光に若君誕生の霊告があったため、家光は江戸城北の鎮護となし、諸大名旗本の寄進を得て慶安二年(一六四九)諸堂宇が完成した。
八代将軍吉宗は、各家に伝わる古書を調査せしめ、久しく途絶していた流鏑馬の儀式を制定した。これに基づいて、享保十三年(一七二八)世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を高田馬場で行ったのが将軍家奉納の穴八幡神事流鏑馬の初めである。
元文三年(一七三八)には竹千代(後の十代将軍家治)の誕生を祝って興行が行われ、以後、厄除けおよび将軍若君誕生の折は流鏑馬が奉納された。
高田馬場は、現在の西早稲田三丁目一・十二〜十四番あたりにあった幕府の弓馬調練所で、広重描く「江戸名所百景」にも紹介されたところである。
流鏑馬は明治以後中絶し、高田馬場も廃されたが、昭和九年五月、皇太子ご誕生奉祝のため穴八幡境内で再興され、戦前は数回執行された。戦後は、昭和三十九年水稲荷神社が現在地(西早稲田三丁目)に移ったのを機会に、流鏑馬の古式を保存するため、同社境内において復活し、例年十月体育の日がその実施日となった。昭和五十四年からは会場を近くの戸山公園内に移し、古式豊かにしてしかも勇壮なこの流鏑馬には、年々見学の人たちが増加している。昭和六十三年三月四日新宿区指定無形民族文化財に指定され、新宿区を代表する行事の一つになっている。
■新宿区指定無形民俗文化財 高田馬場流鏑馬(主催/高田馬場流鏑馬保存会)パンフレットより抜粋
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